陶芸家の故ヴェロニカ・シュトラッサーさんの手のうちの一握の土。
どうしても見せておきたい、と言っていつも作品製作のための土を採取する、山梨県の白州断層に連れて行ってくれた時の写真だ。
ヴェロニカさんとの出会いはまだ笙を始めて間もない頃にさかのぼる。
ヴェロニカさんはある人にあなたの作品には笙の音と響きあうところがある、と言われたことから、いつか自分の作品に笙の音を聞かせたいと願っていたという。
都内のギャラリーでの個展の際、即興のパフォーマンスを友人たちとしたのはとても良い思い出だ。
初めてヴェロニカさんの器に触れたとき、「土」でできた器に、なぜ宇宙の星々の世界を喚起させるような印象があるのか、感銘を受けつつも不思議な思いに駆られたのを覚えている。
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ヴェロニカさんが亡くなられて数年が経ち、自分のアーティストとしてのウェブサイトをリニューアルするにあたって、白州断層を訪れた際の写真を写真家の友人から送ってもらい、この写真に行き当たった。
直感的に、僕が今後の活動のコンセプトとして考えていた「生命感覚の蘇生」という言葉にとても響き合うものを感じた。
ヴェロニカさんが最後に伝えたかったことはなんだったのだろうか。
それは生命の秘儀のようなもので、言葉ではとても表せるものではないのかもしれないけれど、それは、私たちは土の一部であるという深い事実ではないだろうか。
あるいは、私たちの中に、土がある、ということ。この、ヴェロニカさんが掬い出してみせた一握の土。
(白州断層に向かう途上で見つけた鹿の頭骨。ここを訪れた僕らに森が挨拶をしてくれたようだった)
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都市で生きるということは、私たちの観念がインフレーションさせた価値の中をどこまでも泳いでいくということだ。それは私たちの物理的限界や、身体感覚を超えて、どこまでもインフレーションすることのできる価値を追求していくための世界。それはそれで楽しいところもあるけれど、それが行き過ぎたとき、それは私たちの意識や身体を食い潰し、ひいてはこの地球自体を食いつぶしていくことにつながる。それは今、誰の目にも明らかになりつつある。
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最後にヴェロニカさんから〈贈与〉されたもの。それは文字通りこの写真の中の「土」なるもの、そのものだった。そして、私たちという存在自体が、この「土」からの 〈贈与〉によって成り立っているというあまりに深い事実そのものだ。
自然からの贈与の感覚を私たちは忘れてしまった。自然への感謝、自然への畏敬の念…それらは説教くさい陳腐なものとしての文脈の中に回収され、顧みられることがなくなってしまった。私たちは、自然からの贈与という「あまりに深いリアリティー」から切り離されてきたとも言える。ヴェロニカさんの仕事は、その「あまりに深いリアリティー」を私たちの身体感覚の中に深い実感としてもういちど呼び覚すことだったのではないだろうか。
今になって、ヴェロニカさんから贈与された「何か」が自分の中で起動したのだろう。私たちという存在は、実はそのような無数の贈与物から成り立っていて、それは私たちが「受け取った」ことに腑に落ちた瞬間に駆動し、私たちを次のレベルの現実に向かわせる。贈与の霊はいたるところに潜んでいて、私たちに発見されるのを待っている。
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ヴェロニカさんが伝えようとしてくれたように、もういちど、私たちの生命感覚を、生きることの豊かさの中に引き戻すこと。そこから見えてくる世界を、多くの方と共にすることを、今待ち望んでいるところだ。