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「笙」という伝承の流れの中で

実は何才のいつから笙を始めたのか、覚えていない。前述の宮田まゆみ氏の演奏を聴いた音楽祭が2005年だったので、そのころだと思うのだがよく覚えていない。別に物語りめかしたいわけではないのだが。けれど、最初に田島和枝氏のお宅で最初のレッスンを受けたときのことはよく覚えている。とてもおいしいマクロビの料理をいただいたのも覚えている。

たぶん、僕は田島和枝氏と、宮田まゆみ氏に出会っていなければ、笙を始めていないと思う。ふつうに宮内庁楽部の演奏会を聴いたり、民間の雅楽団体の演奏を聴いても、ふーん、で終わっていたと思う。

そこが、伝統ということ、楽器ということの面白いところなのではないだろうか。「物」として、楽器はたしかにそこにある。けれど、その響きは、絶対に「人」を介してしか伝わらない。楽器を鳴らすということは、単なる物理運動なのではなくて、楽器を通して「その人」が鳴っている。それぞれの、その人が鳴らす音は、常に、それぞれが鳴らすその個別の音だ。

「普遍的に正しい伝統の響き」というのは存在しない・・・常に、「個」という、個別の、限定された存在を通してしか、鳴ることもないし、伝わることもない。だから、人が絶えれば、伝統も終わる。

けれど、それが他でもない「伝統」ということの本質なのではないだろうか。「伝統」は、個別の、個人の、これまでに起きた膨大な出来事のディテールの上に成り立つ・・・けれど、それがひっくり返って、「普遍」になる瞬間がある。これが「雅楽」という流れなのだろうか、と思わされる時がある。そういうときに、長い年月の中で練磨されてきた伝統というものの中にある「何か」を感じる時があるように思う。そういった面白さが、やはり、長い年月を経てきた「伝統」の中にはあるのではないだろうか。その負の部分も含めて。

そんなわけで私の場合、田島和枝氏と宮田まゆみ氏という「人」を介して、笙の響きの連なりに、雅楽の連なりに導いてもらったように感じている。個人的に、そしてまことに勝手ながら、お二人はこの世界へのメンターだと思わせていただいています。